「1Q84」の英語版が 2011/10/25 にリリースされると。
小説でも Trailer があるのですね。はじめて知った。
Amazon.com だと $16.04 だそうです。安い!
Kindle 版もあるとのこと。いきおいで買ってしまいそうだ......
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50 代で母と二人暮らしの自称「犬派」が、自宅の庭で生まれた 5 匹の子猫と親猫を保護する。引き取り手を探しているうちに、あれこれあって親猫とオス(長男)の子猫を飼うことになり、徐々に猫がかけがえのないものになっていくという話。
ワタクシもそうだったのだが、猫といっしょに暮らすようになると、街中で猫をよくみかけるようになる。「最近、この近所に猫増えたよね」などと言い出すのである。実際は前からそこにいたはずの猫が見えていなかっただけなのに。冷たい雨に打たれながら植え込みの陰に隠れるキジトラや 35 ℃を超える夏の昼間に水を求める黒猫は、猫を飼うまでは視界に入っていても、頭が認識していなかっただけである。
野良猫の寿命は平均 3 年。一方飼い猫は 20 年生きる場合もある。といった話題がこの本にでてくる。その事実を知り、著者の母親は誰かに引き取ってもらうはずだった猫を引き取る決心をする。そのくだりを含め、日常の風景をほどよい温度感で切り取る筆力がとてもうまい。そして周りの猫好きな登場人物が魅力的に描かれている。もちろん猫も。
とてもよい本でした。
p.s.
サム猫を飼い始めたときのことを思い出したので、小さい頃のサム猫を貼ってみる。
村上春樹を読む楽しみのひとつは、その文体を楽しむことにあると思う。この本には冒頭に、
作家としてデビューしてから三十年余り、あれこれの目的、あちこちの場所のために書いてきて、これまで単行本としては発表されなかった文章がここには集められています。
とあるとおり、それぞれの時代にいろんな目的にそった文体を駆使してかかれた文章が収められている。
ワタクシがいつも気に留めていることの一つが、この本の中で記されている。2007年の雑誌掲載とのことだが、もっと前にこの話を聞いたことがあるような気がするのだが......
セロニアス・モンクは僕がもっとも敬愛するジャズ・ピアニストだが、「あなたの弾く音はどうしてそんなに特別な響き方をするのですか?」と質問されたとき、彼はピアノを指さしてこう答えた。
「新しい音(note)なんてどこにもない。鍵盤を見てみなさい。すべての音はそこに既に並んでいる。でも君がある音にしっかり意味をこめれば、それは違った響き方をする。君がやるべきことは、本当に意味をこめた音を拾い上げることだ」
"It can't be any new note. When you look at the keyboard, all the notes are there already. But if you mean a note enough, it will sound different. you got to pick the notes you really mean!"
物事そのものの新しさというものはほとんどなくて、物事のつながりや組み合わせによって新しい意味や、特別な受け止め方が生み出されることがほとんどだといいたいのだろう。セロニアス・モンクも村上春樹もそういうやりかたで未知の領域に進んだ人たちであり、そのことがワタクシになにかしら勇気のようなものを与えてくれる。
ちなみに、この本には書店カバーがついていて、そこにかかれた書店名によるとどうやら今年の始めに羽田空港からどこかにいくときに買ったようだ。しかし、機内で読んだかというとそういうわけでなく大部分は自宅のトイレで読んだ。収録されている文章のほとんどが、数ページの軽くて雑多な文章なのである。ふとトイレに持ち込んでからというもの、そのままトイレでのんびりしているときにぱらぱらと読む本となった。そういう読み方にちょうどいい本である。そして気がついたら半年近くかけて読み終えることとなった(本自体のボリュームも450ページ近くあるので数ページずつぱらぱらと読むとそれぐらいかかる)。
まあ、とにかく、平素なことばであみだされたいろんな目的・効果のための村上春樹的文体・文章を楽しめる滋味深い書でした。
中途半端でナイーブな社会意識(被害者意識?)のためにいろいろと損なわれているところがあるけど、ワタクシはかなりのアマゾンヘビーユーザなので興味深く読めた。
内容は 2003〜4 年に市川のアマゾン配送センターでアルバイトとして働いた経験をルポタージュとしてまとめて 2005 年に出版した単行本の内容を第一部とし、文庫化(2010年)に際して単行本出版以降のアマゾンを取材して第二部として追加した書籍。
特に面白く読めたのは第一部の配送センターのアルバイトとして働いている日々や物流システムの描写である。想像通り、配送センターでの作業内容はほとんどが標準化されており、システマチックで合理的な労務管理が実現されている。アルバイトは定められた手順通りに静かに手際よく荷物の入荷をさばき、注文にあわせて商品をピッキングして、配送している。
アルバイトにはノルマが課せられていて、たとえばピッキングは1分で3冊を、検品は1分で4冊を、棚入れは1分で5冊を、手梱包は1分で1個を終わらせなければならない。コストの側面から眺めるとアルバイトの時給は当時 900 円、ノルマ通り作業が進めば1冊あたりピッキングは5円、検品は4円、棚入れは3円、手梱包は1個あたり15円となる。各工程で誰が何をどれだけの時間で作業するかをシステム側で把握しているため、作業が遅い場合には指導され、改善されない場合には2ヶ月ごとの契約更改が打ち切られる。それゆえ契約を打ち切られないためにも、アルバイトは怠けることなく作業を進めることとなる。
配送センターの仕組みの話だけでなく、同僚の何人かと知り合いになり、働くアルバイトの人物像も描かれている。時給900円、フルタイム?で働くことで得られる年収は200万ほど。著者はそういう職場にいるフリーターは20代が中心だろうと思っていたが、実際は30〜50代の「中年男性アルバイト」が主力であった。本書に出てくる人でいうと「島崎さん」である。こういう人たちはある種の「楽天さ」「野太さ」をもって日々を送っていると著者は言うが、「諦念」というべきであろう。
この書籍のマイナスは2点。一つめは、著者は再販制度賛成の立場をとっており、そのフレーム、状況認識がじゃまをして単に嫌悪感を感じるだけで、アマゾンと取り巻く状況に対しての調査・分析が不十分となっている点。二つめは、平均年収500万円超といわれるアマゾンの利用者を年収200万円のバイトが支えている構図(著者曰く「階層社会」)に違和感を覚えるという著者自身は、妻子と家賃12万の家で生活し、妻の仕事の関係でフランス移住することになった立場でもあり、中途半端でナイーブな社会意識を元にした蛇足的な箇所がそこここに見られる点である。
他の物流システムのことはよく知らないのだが、アマゾンのような有数の小売企業の物流システムをオペレーション側からの視点で描かれている点が面白いのだと思う。ジェフ・ベソスのような経営者のインタビューを読んだり、SCM や WMS などのような管理システムの話を聞いたりすることでは得られないたぐいのものである。諸々のマイナス点があるものの、著者が調査をすすめれば進めるほど再販制度の問題やアマゾンのすごさを浮き彫りにしてしまう、というねじれた構造から生まれる面白みも加味されて、さほど悪くはなかった。
この週末、用事があって大阪に2日ほど行っていた。最後の方は羽田に戻る飛行機の中で読んだのだが、大阪にいるあいだにほとんど読んでしまった。読みながら、周りの大阪の人たち、とくにおっちゃんを見る目を、ふと、変えてしまう小説だった。まさか、この人たちが、と。
エンターテイメント&ファンタジーな小説であり、ばらしてしまうとつまらないので筋書きにはふれないが、ここでかかれている「大阪」は、ワタクシには懐かしかった(いちおう大阪で生まれ育ったので)。大阪出身の作家でも嘘くさいこてこてした表現が多くなる中で、自然な大阪の空気をうまく描いている。大阪のおばちゃんが全面に出ずに(ご承知のようにくどい存在だから)、大阪のおっちゃんが重要な位置を占めているのがその理由だろう。
そう、この本は「プリンセス・トヨトミ」というカナダの作家が日本の戦国時代の歴史を調べてかいた大河小説のようなタイトルだが、実はその内容は大阪のおっちゃんとそのOB&予備軍の小説なのである。なんというか、めずらしい舞台仕立てである。そしてそれゆえ独特な空気が流れているのだろう。
舞台設定が滑稽無糖なファンタジーなので、多少つじつまがあわなかったり、意味がよく通ってなくとも「まあ、こういうのもあるわな」と思いながらすいすい読み進められるのはうまい。一方でちょっと冗長でもたつくように感じさせられる部分がいくつかあったのは残念。「鴨川ホルモー」や「鹿男あをによし」はタイミングがあわずに読んでなくて、この作者ははじめて読んだけれどいいですね。ほかのも読んでみよう。
と書いたところで、先日読んだ吉田修一「悪人」に続いて、映画化された小説を連続して読んでたことに気づく。次は何を読もうかな。「八日目の蝉」あたりかね(と、次回予告)。
著者は全日空の機内誌でエッセイを書いている。その中で、小説を書き終わってから、舞台となった九州各地を初めて訪れたが、想像していた風景と近くて良かった。また、物語の最後に出てくる灯台に似た灯台がある風景に訪れたときには、作者ながら、本当にこの景色の中であの物語が実際に起きたんじゃないかと錯覚した。という風なことを言っていたのが印象に残って、ふむ読んでみようと、単行本を買っておいてあった。
僕自身、福岡には仕事で結構な回数行ったことがあるが、それ以外の地域には2、3回しか行ったことがない。このため、この本を読みながら(物語の半分は福岡・博多以外の地域が舞台である)、舞台となる景色・風景を想像力を生かしてイメージするしかなかった。読み終わってから、ふとエッセイのことを思い出して、舞台となった(と思われる)地域を訪れてみたいと思った。九州のどこかにはああいう景色・風景がかならずあるような気がした。こういう風に思わせるのは、力がある小説だからだと思う。
この小説で繰り広げられる人間模様から思い起こされるのは「ソーシャル」という言葉である。ソーシャルな、つまり社会的な関係の中で人は多面的な存在であり、そのような関係性のなかでは、あるタイミングにある方向から見た場合に人は「悪人」的な存在となる、というのが、この小説を読みながら感じていたことである。
主人公の清水祐一役が妻夫木聡で映画化されているということが、読み始めてしばらく違和感を感じさせることとなった。ああいうつるんとした優男という顔立ちはこの小説の主人公にはあわない。一方で馬込光代役が深津絵里というのはまったく違和感なくうなづける。といっても、映画を見てないので、いずれにせよあくまで見た目・風貌だけの話だけれど。
この人が書いた「ランド・マーク」という小説が良いと、どこかで見かけたので買ってあったのだが、読まずにほったらかしてある。今度読んでみよう。
レイモンド・チャンドラーは大学生の頃に何冊か読んでいた。今回「さよなら、愛しい人」を読みながら、プロットもシーンも記憶にないのでもしかして未読作品では?と思っていたが、読後に本棚を確認すると「さらば愛しき人よ」の文庫本があり、読んだ形跡があった。人の記憶はアテにならないものだが、同じ作品で2度楽しめたのでよしとしよう。
せっかく(?)なので、清水俊二が訳した「さらば愛しき人よ」と村上春樹が訳した「さよなら、愛しい人」を並べてみる。
まずは「さらば愛しき人よ」の冒頭。
セントラル街には、黒人だけが住んでいるわけではなかった。白人もまだ住んでいた。私は、椅子が三つしかない理髪店から出てきたところだった。職業紹介所からまわされたディミトリオス・アレイディスという理髪職人がそこで働いているはずなのだった。小さな事件だったが、その細君が良人を連れ戻してきてくれたら、お礼をするといったのだ。
男はその店にいなかった。結局、私はアレイディス夫人から一文ももらえなかった。
対して「さよなら、愛しい人」の冒頭。
そこはセントラル・アヴェニューの混合ブロックのひとつだった。つまり黒人以外の人間も、まだ少しは住んでいるということだ。私は椅子が三つしかない床屋から出てきたところだった。ディミトリオス・アレイディスという理髪職人がその店で臨時雇いとして働いているかもしれないという情報を、調査エージェンシーから得ていたのだ。たいした仕事ではない。その男を連れ戻してくれるなら、多少の金を払ってもいいと、女房は考えたわけだ。
結局その男は見つからなかった。でもそんなことを言えばミセス・アレイディスにしたって、一銭の報酬も払ってくれなかった。
原文が手元にないのでどちらの雰囲気が近いかはわからないが、それにしてもずいぶん違う雰囲気である。プロットもシーンも記憶にないのはそのせいかと一瞬考えたが、おそらくそうではない。単に時間が経ちすぎただけだろう。同じ作品で2度楽しめるというのは歳を取ることの楽しみのひとつである。
「さよなら、愛しい人」を読み始めて最初の100ページぐらいの間は、フィクションな文章を読むということに眼と頭が協調して作業できていなかった。心身ともに疲れている状態で昭和の香りが色濃い神田の喫茶店や休日でのんびりした雰囲気の山手線車内で読んだりしてたのがなにかしら影響しているのだろうと思いつつ、一方でハードボイルドものを読むと疲れていてもなんとなしに背筋が伸びてくるもわかった。そういえば思い返せばロバート・B・パーカーでもなんでもいいのだけれど最近ハードボイルドものをまったく読んでない。こりゃいいやと思い、読後に間髪入れずに村上版「ロング・グッドバイ」と、ペーパーバックの読みかけで終わってしまっているジェイムス・エルロイ、スー・グラフトン、ロス・マクドナルドを amazon で注文してみた。楽しみである。
立ち読みした雑誌だったかなんだかで「注目の作家」と紹介されていたのを覚えていて、書店で「『このミステリーがすごい! 2009年度版』作家別投票第1位」という帯をみかけたのでふらっと読んでみた。
出だしから不穏な空気を感じたが、その予感はあたって、どこか暗くて救いがなく、読後も寒々しく感じる小説。暗さを感じるのはサイコサスペンス的な要素があって不気味な歪みがあるため。が、その一方で、人間の精神の内面をえぐりだすような部分がなく、文章がさっぱりしていて淡泊な感じのする空気も漂う。こういう作品はかなり好き嫌いが分かれるんじゃないかと思う。
ただ、すらすらと読ませる物語をいとも簡単に作り出しているように見えるので、エンターテイメント作家としては力があるんじゃないかと思う。機会があれば、もう一作ぐらい読んでも良いかもしれない。
小説とは面白いか面白くないか、本質的にはいずれかの評価しかなくて感想もとりあえず面白かったか面白くなかったかだけでいいんじゃないかと思っているのだが、この小説は充分面白かった。出版されてこんなにすぐに読むつもりはなかったのだけど、書店に寄ったときに気になったのでつい買ってしまってあっというまに読んでしまった。読み手をどこかしらない世界へ連れて行ってくれる物語性が、いい意味でも悪い意味でも村上春樹的で、安心して愉しみながら読むことができた小説だ。これまでにいちばん近い感覚だったのは「ねじまき鳥クロニクル」を読んだときかと。
表層/深層と象徴の意味探しゲームとして小説を読むほうではないので、この「1Q84」からなんらかの意味や思想を読み解いたわけでないが、読み終わった後に頭の中に残るものがあるとすると、それはリアルとフィクションの境界はとても不確かであるということ。作中でのフィクションとリアルの関係だけでなく、この小説と読み手としてのワタシであったり、この小説の一つのテーマである宗教カルトの虚構性と現実性であったり。その漠然とした関係にあるリアルとフィクションの間をいったりきたりしながら丹念に緻密に構成された小説世界だったというのが、この「1Q84」を読み進めてくぐり抜けてきた後に残されている感覚。
ついでに言うと読みながら a~ha の "Take on me" の PV を思い出した。鉛筆描きの絵と実写の人物が交わりあいながら進行する80年代の音楽ビデオの傑作の一つね。あのビデオで描かれているリアルとフィクションの関係がいろんな意味合いで近いのかなと。
それから、すでに読んだ人たちとなにかを共有するために、細かいところで気になったことをいくつか。まず、最初のほうの章で、主人公の片方が非常階段を下りてきて、資材置き場にたどり着く場面があるが、その風景描写の中に、
屋根の下には、潰れた大きな段ボール箱もいくつかあった。数本のペットボトルと、漫画雑誌が何冊か地面に捨てられている。そのほかには何もない。ビニールの買い物袋があてもなく風に舞っているだけだ。
とあるが、ペットボトルは1984年にそこまで普及していたかな?自分の1984年の記憶をたどってもあまりペットボトルの記憶がないのだが、どうだろう?まあ、ペットボトルに入って売られていそうなコークや炭酸飲料ってもともと飲まなかったから、身近な記憶として残っていないだけか?
あと、この小説の外国語に訳出する時のタイトルはどうなるだろうか?たとえば英語で "1Q84" と表されても "1984" にはつながらないからね。訳者はそれぞれ頭をずいぶんとひねらなくちゃいけないんだろうな。
それから BOOK 3 はいつでるかな?「ねじまき鳥クロニクル」を読んだときの感覚に近い理由の一つは、BOOK 2 の最後まで読み終わった時に感じた、物語がしかるべき形で閉じてないなという感覚が「ねじまき鳥クロニクル」の時に似ていることにある。「ねじまき鳥クロニクル」は第1部、第2部が出版されたしばらく後(手元の「ねじまき鳥クロニクル」の奥付をみると1年4ヶ月後)に第3部が出版されているので、似たような形で BOOK 3 が出るような気がする。1Q84年はあと3ヶ月残っているし、なにより2冊で終わる場合はこれまでほとんどが「上」「下」という構成になっているあたりが気になる。
2月上旬に読んだので忘れたところもあるが、読書メモとして。
この本を読むまで「白洲次郎」という名前しか知らず、何をした人なのかまったく知識がなかった。この人を取り巻く表現にはやたらと「ダンディズム」というキーワードばかりでてくるのでその度に鼻白んでいたのだが、修士論文が終わって一段落するには気張らずに読めるノンフィクションがよいだろうと思っていたところに「2009年NHKでドラマ化決定!」と書店で平積みされていたのについ手を伸ばして一気にざっと読んだ。
で、この本を読む限り、この人を伝えるために用いられている「ダンディズム」というものが僕にはいまひとつわからない。いささか乱暴なまとめ方をすると、兵庫芦屋の富裕層の家庭に生まれ日本の教育システムになじまず英国に放擲されたが、実家の経済危機に伴って帰国し、その後、さまざまな縁に助けられて戦中〜戦後にかけてそのポジションに求められている役割を十二分に果たしただけの話である。直情的な行動特性を持ち、幼稚な正義感と頑固さに支えられた性格というのは、生まれ持った社会的地位と相まって、チャーミングな人物像を醸し出しているが、そこには「ダンディズム」的ななにかは感じられない。むしろ、アッパークラスに生まれ育ったのだから、これぐらいの振る舞いと役割を果たしてもおかしくはないだろう、と思う。
むしろ気になったのは、彼のようにしかるべき時期・場所において大切な役割を果たせる人が、いまの日本のどこでどうやって育っているのだろうということである(それは「日本語が亡びるとき」の中で夏目漱石に関するくだりを読んでいるときにも感じた)。明治維新にまつわるストーリーを読んでも、戦後に関する話を聞いても、いずれにおいてもしかるべき環境で人材が育っていたことを知るのだが、今の日本にはそれだけの経済的な余裕と/または養育のための精神的な素地があるのだろうかと。そしてそういう環境があるのだとしたら、それはどこだろうかと。
単純にいうと、同世代人としてこういう大切な役割を果たしている人がどこにいるのかふと疑問に思う、それだけのことだけれど。で、個人的な感覚としては白州氏のケースのように high class society ではなく、marginal なところにいたほうが面白いんじゃないかと思う。