「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」村上春樹

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ハノイ行き直前に丸の内丸善で買ってきて、ラオス・ルアンパバーン行きの機中とラウンジでほとんどを読んだ。

読みおわった直後の素直な感想は、どうしたんだろう、村上春樹は、というものである。

Colorless Tsukuru Tazaki and His Years of Pilgrimage

この小説は、初期作品のセルフパロディーのような仕上がり。「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」というタイトルも、「村上春樹」かぶれしている作家志望がつけそうなタイトルだといえなくもない。

学生時代におきた人間関係のもつれに端を発する孤独であったり、テーマとしての音楽であったり、鼻白むような非実在的な会話であったり、意味ありげなあだ名だったり、とあちこちに既視感あふれるモチーフが散在している。

「大事なのは勝とうという意思そのものなんだ」と彼はよく言ったものだ。「実際の人生で、おれたちはずっと勝ち続けることなんてできない。勝つこともあれば、負けることもある」
「そして雨天順延もある」と皮肉屋のクロが言った。
 アオは哀しそうに首を振った。「君はラグビーを野球やテニスと混同している。ラグビーには雨天順延はない」
「雨が降っても試合をするの?」シロは驚いたように言った。彼女はすべてのスポーツにタイして興味と知識をほどんど持ち合わせなかった。
「本当だよ」とアカがもっともらしく口を挟んだ。「ラグビーの試合はどんなに雨が降っても中止にならない。だから毎年多くの選手が競技中に溺れて死ぬ」
「なんてひどい!」とシロが言った。
「馬鹿ね、もう。そんなの冗談に決まっているでしょうが」とクロがあきれたように言った。
「話が逸れてしまったけれど」とアオが言った。「おれが言いたいのは、上手な負けっぷりも運動能力のひとつだということだよ」
「そして君は日々その練習に励んでいる」とクロが言った。

なんというか、むかし読んだ村上春樹の小説のどこかにありそうなものばかりである。目新しいところはあまり目につかない。少ないながらも気になったのは、物語終盤に現れる JR 新宿駅の描写のくだり程度である。

 新宿駅は巨大な駅だ。一日に延べ三百五十万に近い数の人々がこの駅を通過していく。ギネスブックはJR新宿駅を「世界で最も乗降客の多い駅」と公式に認定している。いくつもの路線がその構内で交わっている。主要なものだけで中央線・総武線・山手線・埼京線・湘南新宿ライン・成田エクスプレス。それらのレールはおそろしく複雑に交差し、組み合わされている。乗り場は全部で十六ある。それに加えて小田急線と京王線という二つの私鉄線と、三本の地下鉄線がそれぞれ脇腹にプラグを差し込むような格好で接続している。まさに迷宮だ。通勤ラッシュの時刻にはその迷宮は人の海になる。海は泡立ち、逆巻き、咆哮し、入り口と出口をめがけて殺到する。乗り換えのために移動する人々の流れがあちこちで錯綜し、そこに危険な渦が生まれる。どんなに偉大な預言者をもってしても、そのような荒々しく逆巻く海を二つに分かつことは不可能だろう。

こういう説明的な下りは、いままでの村上春樹の小説にはあまり見られなかった(と思う)。まあ読めば村上春樹の文章だと言うことがおおよそ見当がつくのだが。こういった新たなフレーバーというかピースが、今回の小説ではかなり少ない。そういう文体やフレーバーで実験的になっている小説ではないようである。

一方、こうしたリサイクル気味なフレーバーをそこここにちりばめながら「1Q84」や「ねじまき鳥クロニクル」で見られたような重層的かつ中心的なストーリーというか、ファンタジーとしてのプロットがあるのかと期待しながら読み進めていくと、特にそういうわけでもない。単純化して言えば、学生時代におきた人間関係のもつれをほぐすために過去の友人に会いに行き、それが終われば現在の彼女のところに駆けつけよう、というもの。このプロットもいささか再利用気味であるといえる。ということはストーリーのおもしろさで引っ張るたぐいの小説ではないということである。

というわけで、冒頭の「どうしたんだろう、村上春樹は」と感じるのである。この感じは、この小説でキーとなるフレーズがうまく表してくれていると思う。

「でも不思議なものだね」とエリは言った。
「何が?」
「あの素敵な時代が過ぎ去って、もう二度と戻ってこないということが。いろんな美しい可能性が、時の流れに吸い込まれて消えてしまったことが」

これを読みながら、もしかすると、老年期にはいりつつあることの村上春樹なりの宣言なのかもしれない、とふと感じたのだが、はたして。


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