レイモンド・チャンドラーは大学生の頃に何冊か読んでいた。今回「さよなら、愛しい人」を読みながら、プロットもシーンも記憶にないのでもしかして未読作品では?と思っていたが、読後に本棚を確認すると「さらば愛しき人よ」の文庫本があり、読んだ形跡があった。人の記憶はアテにならないものだが、同じ作品で2度楽しめたのでよしとしよう。
せっかく(?)なので、清水俊二が訳した「さらば愛しき人よ」と村上春樹が訳した「さよなら、愛しい人」を並べてみる。
まずは「さらば愛しき人よ」の冒頭。
セントラル街には、黒人だけが住んでいるわけではなかった。白人もまだ住んでいた。私は、椅子が三つしかない理髪店から出てきたところだった。職業紹介所からまわされたディミトリオス・アレイディスという理髪職人がそこで働いているはずなのだった。小さな事件だったが、その細君が良人を連れ戻してきてくれたら、お礼をするといったのだ。
男はその店にいなかった。結局、私はアレイディス夫人から一文ももらえなかった。
対して「さよなら、愛しい人」の冒頭。
そこはセントラル・アヴェニューの混合ブロックのひとつだった。つまり黒人以外の人間も、まだ少しは住んでいるということだ。私は椅子が三つしかない床屋から出てきたところだった。ディミトリオス・アレイディスという理髪職人がその店で臨時雇いとして働いているかもしれないという情報を、調査エージェンシーから得ていたのだ。たいした仕事ではない。その男を連れ戻してくれるなら、多少の金を払ってもいいと、女房は考えたわけだ。
結局その男は見つからなかった。でもそんなことを言えばミセス・アレイディスにしたって、一銭の報酬も払ってくれなかった。
原文が手元にないのでどちらの雰囲気が近いかはわからないが、それにしてもずいぶん違う雰囲気である。プロットもシーンも記憶にないのはそのせいかと一瞬考えたが、おそらくそうではない。単に時間が経ちすぎただけだろう。同じ作品で2度楽しめるというのは歳を取ることの楽しみのひとつである。
「さよなら、愛しい人」を読み始めて最初の100ページぐらいの間は、フィクションな文章を読むということに眼と頭が協調して作業できていなかった。心身ともに疲れている状態で昭和の香りが色濃い神田の喫茶店や休日でのんびりした雰囲気の山手線車内で読んだりしてたのがなにかしら影響しているのだろうと思いつつ、一方でハードボイルドものを読むと疲れていてもなんとなしに背筋が伸びてくるもわかった。そういえば思い返せばロバート・B・パーカーでもなんでもいいのだけれど最近ハードボイルドものをまったく読んでない。こりゃいいやと思い、読後に間髪入れずに村上版「ロング・グッドバイ」と、ペーパーバックの読みかけで終わってしまっているジェイムス・エルロイ、スー・グラフトン、ロス・マクドナルドを amazon で注文してみた。楽しみである。



