日本語で書かれた文学、特に小説が最近つまらない、正確を期すと時間をかけて読むべきものであるように思えないという認識はよくわかる。ただ、それが事実なのか、他の領域への興味分野の拡大によるものなのか、加齢による興味対象の変化なのか、いずれによるものなのかは僕個人としてはいまひとつ区別がついていない。
この本が書かれた問題意識は、著者の友人(「同じ年くらいの日本女性で、やはり日本近代文学に親しんで育った」「自他共に認める才媛で、アメリカの著名な大学の先生」)の言葉を借りて次のように表現されている。
「あたしたちが小さいころ、小説家っていったら、モンのすごく頭がよくって、いろんなことを考えていてーーなにしろ、世の中でいちばん尊敬できる人たちだと思ってたじゃない。それが、今、日本じゃあ、あたしなんかより頭の悪い人たちが書いているんだから、あんなもん読む気がしない」
同じように感じているであろう著者は次のように引き取るのである。
過去の遺産ゆえ、日本文学から、現実にはもうありえない高みをいまだ期待してしまうのである。今、「文学」としてまかり通っているものの多くが、過去の遺産ゆえに、「文学」としてまかり通ってしまっているという事実にいつまでも慣れないのである。そして、それと同時に、何かが日本文学におこりつつあるのをーーひょっとすると日本文学が、そして日本語が「亡び」つつあるのかもしれないのを感じているのである。<省略>
この本は、この先の日本文学そして日本語の運命を、孤独の中でひっそりと憂える人たちに向けて書かれている。そして、究極的には、今、日本語で何が書かれているかなどはどうでもよい、少なくとも日本文学が「文学」という名に値したころの日本語さえもっと読まれていたらと、絶望と諦念が錯綜するなかで、ため息まじりに思っている人たちに向けて書かれているのである。
今、日本文学と日本語が「亡び」つつあるのではないか、というのが著者の問題意識である。
ここから始まり、日本文学と日本語の成立とその特殊さ、および他言語の状況に関する断片的な記述が紆余曲折あって(途中の話をまとめたりするのが面倒なので省略気味に)、結局のところ、著者の言いたいことはこういうことである。
日本の国語教育はまずは日本近代文学を読み継がせるのに主眼を置くべきである。
最終章で、著者はこの主張を三回くりかえしている。それだけ声を大にして言いたいことなのだ。
僕は大学での専攻が日本文学、それも近代〜現代文学が主領域だったので、日本近代文学作品についてはけっこう読んでいる方だが、それによって書き言葉としての日本語における豊饒さの恩恵にあずかることができたという実感がある。この実感をもとに普遍性のある何かを言うとすると、実用的な日本語運用能力の向上は、日本語の正書法を学ぶことだけでは実現されず(間違いのない文章を作成能力は必要だけどさ)、むしろ言語の修辞学的機能を身につけることが必要で(言葉遊びをして、気に利いたことの一つも言えるようになろう!)、そのための手段の一つとして文学作品を数多く読ませるというのは悪くない方法だということである。むろん言うまでもなくこれだけで充分ではなく、日本以外の文学作品に触れる必要もあり(ヨーロッパ、米州、アジアのメジャーな古典は全部とは言わずともある程度は読んでおきましょう)、日本語による論理的文章の組み立てを身につける必要もあり、また外国語の運用能力を身につける必要もある。ただ、言語の修辞学的機能の習得には読まれるべき言葉としての文学作品を読むのが早道だろ?ということである。そういう点では著者の主張に部分的に賛同するものである。
一方でこの本の弱点は、評論的なスタイルを採用しているにも関わらず、論理構造の不明瞭さがそこここにみられる点である。この作品は読めばわかる通りで本質的には随筆なのだが、こういうスタイルでまとめてしまうと、不要なつっこみを誘発してしまう(それが狙いなのであれば、狙い通りとなっているのかもしれない)。ただ、学問の文章やビジネスの文章で書かれたものに慣れた人がそういうスタイルを期待して読み始めると、この手の小説家の文章・スタイルに無用な違和感や反発をおぼえても仕方ない。この点は残念である。失礼を承知で言うと、著者はこのスタイルでこの手の内容の文章を書くべきでないと思う。
この本も amazon で見つけて去年11月に買っておいたのを今回ようやく読んだ(大学院生活で忙しかったのと、ネットでの騒ぎが面倒さそうだったので)。著者の小説については「続明暗」を大変興味深くそして楽しく読んだ記憶がある。「私小説 from left to right」も確か積ん読リストに入ってたはずなのでそのうち読んでみよう。



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